聖武天皇の行幸
神亀元年(724)2月4日に即位した聖武天皇は、同じ年の10月5日に
紀伊行幸に出発し10月23日に平城宮に戻った直後の11月23日から
大嘗祭を行った。そして翌神亀2年10月10日に難波宮に向けて行幸
したのであった。この即位ー紀伊行幸ー大嘗祭ー難波宮行幸を基本パターン
として、奈良時代の天皇は、そのすべてまたは一部を行った。
聖武天皇の紀伊行幸は、大嘗祭の供物を和歌の浦で採取するのを
天皇が見ることを本質としており、大嘗祭の準備として広い意味での
即位儀礼の一環であるとみなせる。また、難波宮行幸は大八洲の霊を
天皇の体内に取り込むことに重点があり、これまた即位儀礼の一環で
あった。
難波宮への固執
聖武天皇は、曾祖父の天武天皇の正統な後継者であることを示すために、
後期難波宮を造営する。歴代の中で最も難波宮を重視した天皇で、
在位中に7回、退位後に1回の合計8回も行幸したことがそれを端的に
示している。
最後の天平勝宝(756)の行幸は、すでに前年の10月に
病気であることが公表されていて、病気が進んでいる中で
行われたものであった。2月28日に難波宮に入ると、
翌々日の3月1日にはさっそく難波堀江に臨んでいる。
重病の身でわざわざここに出向いたのは、病=ケガレを
払い流すためであったとみられる。
かって仏教受け入れの可否をめぐって激しい対立が生じたとき、
廃物派によって仏教の象徴である仏像などが棄てられたのが難波堀江で
あったことが示すように、ここはケガレを払う場所であった。
このように、難波という地は、天皇の心身を健全に保つために重要な場所と
考えられていた。聖武天皇が、即位のはじめと生涯の最後に難波を訪れたのは、
ことと関係している。
古代と現代との深淵
聖武天皇が体内に取り込もうとした大八洲の霊だが、日本の古称で
「古事記」ではイザナミノミコト所生の淡路、伊予(四国)、隠岐、
築紫(九州)、壱岐、対馬、佐渡、本州(大倭豊秋津島)の8つの島
から成り、難波宮行幸と深い関わりがある。
時は流れて西暦2020年、新型コロナウイルスが
蔓延している日本に「アマビエ」を信仰する風潮が
見られる。「アマビエ」とは日本に伝わる妖怪で、
豊作や疫病に関する予言をしたと伝えられている。
何かに縋るという行為は古代も現代も変わらないようだ。