大きく変わる高校の教科書
令和4年度から適用される「新学習指導要領」によって、
高校国語科の構成が大きく変わる。
まず、共通必修科目の「国語総合」が、現代の社会生活に必要
とされる論理的、実用的文章を扱う「現代の国語」と、古典
から現代までの小説、詩歌を扱う「言語文化」に分離される。
選択科目の「国語表現」「現代文A」 「現代文B」 「古典A」
「古典B」が、「論理国語」 「文学国語」 「国語表現」
「古典探求」に変更され、生徒は4科目のうち2科目を履修する
ことになり、履修パターンは学校に任される。
目玉は新たに登場した「論理国語」だ。
多様な文章を多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の
考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する科目として、主と
して思考力・判断力・表現力などの創造的・論理的思考の
側面の力を育成するという。
大学入試センター試験に代わって2年度から導入される大学入学
共通テストのサンプル問題の中に、架空の生命保険の契約書とい
った実用的文章を素材にした設問がいくつもあったため、進学校
では「論理国語」と「古典探求」を履修させるようになる、つまり
高校生が近代文学に触れる機会が大幅に減るのでは、という憶測が
飛びかった。
反知性主義者の深刻な状況
まず、ある評論家が「中島敦<山月記>や漱石<こころ>のような
日本人なら誰でも読んだことがある文学作品が、契約書やグラフの
読み取りに取って代わられる」と警鐘を鳴らした。
続いて、ある作家が「契約文や図表を読み解くことが本当の<国語>
教育なのか」と訴えた。
また、別の評論家が次のように書いた。
「<国語教育>の意味は(中略)放っておけばまず間違く触れない<国語>
の世界に、子どもたちを触れさせておくことにあります。<山月記>然り
<こころ>然り、森鴎外の<高瀬舟>然りです。私などは、そこに谷崎
潤一郎<刺青>や、三島由紀夫<憂国>など[危ない作品]も入れたいところ
ですが」
ネット上では、ある思想家が<自分たちは子どもの頃から文学に何も関心
がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった>と
信じる反知性主義者の深刻な状況と指摘する。
また、ある脳科学者は<言語の運用能力として、論理的な思考力、批判的
思考、というのがあるのはわかる。
しかし、それは、いわゆる文学的な読解力と、ひとつながりのものだ。
日本語に関する教科を、「論理国語」と「文学国語」に二分して、そのうち
どちらかを選択、ということを考える人達の頭の悪さとセンスの貧しさには、
驚愕する>とつづった。
この世界には、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだ人間と
そうでない人間の2種類がいる。
人間存在の深淵にからめとられ苦悩する人間と「カラマーゾフ」を読んだ
としても、深淵なぞから目をそらして合理的・功利的に生きようとする人間。
もちろん社会的に出世し、国や会社の運営を担うのは後者である。
苦悩する前者がその役割を担えるはずがない。ただ、後者のように、現世だけ
に生きる者は、現世によって使い捨てにされる。そのことは覚えておいたほう
がよい。
後者の役割とは、芸術や批評活動によって前者が支配する世界を精神的に豊か
にしてゆくことだろう。どちらのタイプの人間もこの世界に必要だ。
高校国語科の改編には後者の意向が強く反映されているのは間違いない。前者
がそれを批判するのは、社会全体としてみれば、きわめて健全なことだ。大事
なのは双方が聞く耳を持つことだろう。
憲法・条約等を使い面白い授業の構成
いま考えなければならないのは、「論理国語」の授業を、高校生にとって真に
意義あるものとするため、何を素材にどう展開してゆくかということだ。その
気さえあれば、いくらでもダイナミックで実践的で深い授業が可能だと私は考え
ている。
まず、生命保険の契約書というしみったれた素材など扱うなと言いたい。「自分
が損しないため」としか考えられない卑小な人間を作るだけだ。では何を素材に
にするか。日本国憲法や日米安保条約、国連憲章などだ。
できることなら年に数回、憲法学者、哲学者、弁護士、検事、企業の法務担当者
ジャーナリストなどを講師として招き授業をやってもらう。
それぞれにイデオロギーをお持ちだろうが、授業では文章をイデオロギーのフィルター
を通さずに論理で読み解くことが条件だ。
結果的に生徒は、他人の意見や知識を貯め込むことになる。だが最も大切なことはそれら
を自分たちのものにできるかどうかである。
「論理国語」がその方向に進んでくれることを願ってやまない。