長崎県・大村市
白いボディをめかせた航空機が、紺碧の空に
溶け込むように飛びたっていった。
大村湾沖に浮かぶ長崎空港(大村市)は、
対岸の森林公園から眺めていると、騒音
も聞こえてこないために、おもちゃの航空機
が飛んでいるようにも見えた。
波も穏やかだった。
長い橋を渡って、ときたま大型バスやタクシー
がやってきた。
公園のベンチのわきには、洋装姿の少年4人の
像が建っていた。
どれも顔がまるく、幼い表情だが、キリッとした
りりしさが漂っていた。
「天正遣欧少年使節」と呼ばれた。
使節の派遣
19年間も続いた「天正」時代の最大のヒーローは
織田信長であった。
一向宗をはじめとする仏教を嫌っていた信長だが
キリスト教には寛容であった。
ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスとも度々
会い、安土城(滋賀県近江八幡市)の城下に学問所
「セミナリオ」も作らせた。
フランシスコ・ザビエルにはじまるキリスト教の
布教はこの時代、安土のほか、京や堺などでも、
短い間ながら、全盛期を迎えた。
少年使節の派遣はヨーロッパの人々に「日本」
国の存在をアピールするのがネライで、4人が
乗ったポルトガル船は天正10(1582)年2月
長崎港を出港した。
その4ヶ月後、「天下布武」を目指していた
信長は、本能寺で自害した。
「天下人」が豊臣秀吉、ついで徳川家康に
移るとともに、キリスト教には徐々に不寛容
となり、やがて弾圧の対象となった。
大旅行中の少年使節はもちろん、そんな事は
全く知らなかった。
4人は伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル
中浦ジュリアンで、出発自の年齢は13~14歳で
あった。
ジュリアンを除く3人は、日本で最初にキリシタン
大名となった大村純忠のほか、大友宗麟や有馬晴信
ら九州のキリシタン大名の「名代」とされた。
ローマ・バティカン宮殿
インド洋からアフリカ南端を経て、2年半を
かけてヨーロッパに着き、ポルトガルやスペイン
で大歓迎を受けた。
クライマックスは1585年3月、ローマ・バティカン
宮殿での教皇グレゴリオ十三世との謁見であった。
式典で司会役の神父は「彼らは世界の果てなる日本
からはるばる来て、猊下のもとにひざまずいたので
あります。(略)いまや地球の周りを全て回らなけ
れば行けないほど遠く離れた国が改宗しました。」
とたたえた。
だが、”ハレ”の式典に、名代ではないジュリアンだけは
列席できなかった。